Interview:Sunik Kim

_この度は、インタビューを受けて頂きありがとうございます。まず、自己紹介からお聞きしても良いですか?
私は韓国のソウルで生まれ育ちました。自分自身を写真家であるとはっきりと位置づけていますが、一方で、あらゆる境界や定義に挑戦することにも関心を持っています。
_写真家には、いつ頃からなろうと思ったのでしょうか?また、どのようにしてそのキャリアをスタートさせましたか?
写真家になりたいと決心した、何か決定的な瞬間があったわけではないと思います。正直に言うと、写真を撮り始めた頃は、そこまで真剣に写真に向き合っていたわけではありません。
20代後半の頃、人生で初めて小さなミラーレスカメラを購入し、趣味のような感覚で気軽に写真を撮り始めました。それが、私と写真との関わりの始まりでした。それまでは、自分がアーティストや写真家になるなんて、想像したこともありませんでした。
私は何かを思いつくと、あまり深く考えずに、すぐ行動に移す傾向があります。写真を始めたことにも、そうした自分の性格が関係していたと思います。
当時、メディアなどで目にしていた情報から、写真家という仕事について漠然としたイメージを持っていましたが、私自身の姿勢はとても気軽なものでした。ただ、「写真を撮って、それでお金を稼げたらいいな」くらいに考えていたんです。
当然ながら、アーティストとしてのキャリアをどのように始めればよいのか、まったく分かりませんでした。どこで、どのように作品を展示できるのか、あるいは誰に自分の写真を見せればよいのかも分かりませんでした。
そこで、自分で本をつくってみることにしたんです。
それまでデザインを学んだ経験はありませんでしたが、独学でInDesignの使い方を覚え、初めての本を制作しました。
その過程を通じて、私は自分自身を写真家として位置づけるようになりました。
それが2019年のことです。
_なるほど、そうなんですね。あなたのお話を聞いて、カメラを購入したことから始まり、さまざまな経験を重ねながら、少しずつ写真家になっていったように感じました。そして、その流れのなかでも、ご自身で選択し、行動してきたことが印象的でした。独学でデザインを学び始めたことも、まさにその一つのように思います。
実際に、ご自身で初めて本を制作したときはどうでしたか?かなり苦戦しましたか?
正直に言うと、当時の私はデザインについて何も理解していませんでした。私にとってデザインとは、どちらかというと画像を編集したり、写真を選んで配置したりすることでした。タイポグラフィについては、まったく知識がありませんでした。ほとんど何も知らなかったと言っていいと思います。
誰にでも受け入れられそうなサンセリフ体の書体を探して、それを表紙にも本文にも使ったことを覚えています。
ただ、本をつくり始める以前から、写真を並べたり、順序を考えて構成したりすることは好きでした。私は写真を撮るときと、それを編集するときとでは、まったく別の人間になろうとしています。編集するときには、写真家としての自分のエゴを、できる限り脇に置くようにしているんです。
私は、何かと何かの間で、選択に悩むようなタイプではないと思います。決断するのは早い方ですし、たとえ物事がうまくいかなかったとしても、たいていはその結果を受け入れることができます。その経験を教訓として、次へと進んでいくんです。
そういう意味では、初めて本をつくったときに最も苦労したのは、デザインそのものというよりも、完成した本を、その後どのように流通させ、販売していくかということでした。
とにかく本をつくってみたものの、どれだけ自分の作品について話しても、興味を持ってくれる人はあまりいませんでした。
そもそも、ほとんどの人は、私が写真家として活動していることさえ知らなかったんです。
_つまり、トライ&エラーを繰り返しながら、次のステップへ、そしてまた次のステップへと進んでいったんですね。決断の早さや、あまり悩まないという性格。そういったご自身の性格を理解していることも、次へと進むための力になっていたのでしょうか?
また、当初は作品に興味を持ってもらうことや、本を流通させることに苦労されていたとお話しされていましたね。現在では、作品集が完売したり、再版を検討するまでになっていますが、そこに至るまでには、どのような経験や出来事があったのでしょうか?ぜひ、その経緯をお聞きしたいです。
何かを始める前には、十分な時間をかけてじっくり考えることが大切だと思います。もちろん、私自身も考えを行動に移す前には、そうした過程を踏んでいます。ただ、考えることにあまりにも時間をかけすぎると、かえって自分自身の可能性を狭めてしまうことにもなりかねません。だからこそ、自分なりのバランスを見つけることが大切だと思っています。
初めて本を制作した後に直面した、周囲の冷ややかな無関心は、決して気持ちの良いものではありませんでした。しかし、そこには何かしらの理由があるはずだと考えました。一方で、あるプロジェクトが注目を集めるのであれば、それにもまた理由があるはずです。
そうしたことを考えながら、私は新しいプロジェクト『Temporary Garden』の制作を続け、2023年の春に、初めて個展を開催する機会を得ました。
展覧会の準備は、開催の6か月前から始めました。デザインを担当するチームと密にコミュニケーションを取りながら、準備を進めていきました。
約1か月間にわたって開催された展覧会には、予想以上に多くの方々が足を運んでくれました。そして、作品に対する反応も好意的なものでした。
私は、その大きな反響に少し戸惑いを感じていました。というのも、作品制作を始めて以来、それほどの注目を集めたことは、それまで一度もなかったからです。
この展覧会を終えた後、私はデザインというものの範囲について、あらためて考えるようになりました。デザインを単に画像の編集やタイポグラフィという観点だけで捉えるべきではないと気づいたのです。
初めての個展は成功のうちに幕を閉じました。そして、その後は、プロジェクトに興味を持ってくれたさまざまな人たちから、問い合わせをいただくようになりました。
こうして少しずつ、写真家としての自分の存在を知ってもらえるようになっていったのだと思います。

_周囲の無関心についても、単に他者の反応として受け止めるのではなく、そこに何かしらの理由があると考えられたのですね。そうした経験を経て、『Temporary Garden』で得られた好意的な反応は、とても興味深いです。『Temporary Garden』の写真を拝見しました。一般的に「庭」とは、人の手によって自然が管理され、区分けされた場所を指します。しかし、あなたの写真で興味深いのは、自然が侵入し、突破していく様子や、予期せぬ結びつき、絡まり合いが捉えられていることです。今回のインタビューの冒頭で、あなたは「あらゆる境界や定義に挑戦することにも関心を持っている」と話されていました。まさにそのような姿勢が『Temporary Garden』にも表れているように感じました。
そこで、『Temporary Garden』の制作を通して、あなたが考えていた「境界や定義に挑戦する」ということについて、もう少しお聞かせいただけますか?
自分自身を写真という媒体やジャンルのなかではっきりと位置づけながら、同時にあらゆる境界や定義を曖昧にしたいと考えているのは、かなり矛盾しているように聞こえると思います。そして、「境界」という言葉自体も、あまりにも広い意味を持っています。私自身、今でもその意味を理解しようとしているところです。
境界とは、家の内側と外の通りを隔てるものかもしれませんし、自分の内面と、それを取り巻く外の世界とのあいだにあるものかもしれません。
私が『Temporary Garden』のなかで見出したのは、一方では何かを定義し、形を与えながら、もう一方では、その定義そのものに挑戦するという、ある種の柔軟さだったと思います。
その柔軟さは、私に希望を与えてくれました。しかし同時に、決して完全には捉えることのできないものでもあったため、絶望をもたらすことにもなりました。
そういう意味で、この一連の作品を制作するなかで私が学んだのは、自分自身の限界を、ありのままに受け入れることでした。
私にとって、それは自然を受け入れるということでもあります。つまり、私たちには決して完全に理解することも、コントロールすることもできないものが存在するのだと認めることなのです。
_ご自身を認識しながら、さまざまな境界や定義に挑戦する。そして、その手法として写真を撮り、表現する。それは、ある種の社会との関わり方に対する態度のようにも感じました。
一方で、私たちは社会のなかで、さまざまな物事を定義したり、区分けしたりしながら生きています。人も社会も矛盾を抱えており、必ずしも思いどおりになるわけではありません。
そのような社会のなかで、『Temporary Garden』を通してあなたが見出した「柔軟さ」は、どのような意味を持つのでしょうか。また、その柔軟さを持ち続けることが難しいと感じることはありますか?
そして、もう一つお聞きしたいことがあります。何かに挑戦し続けることと、自分自身の限界を受け入れること。この二つも、ときには矛盾を孕んでしまうことがあると思います。この二つは、あなたのなかでどのようにつながっているのでしょうか?
相反する二つの価値観のどちらか一方を選び、どちらかが正しいと主張するのではなく、私はその両方を受け入れようとする傾向があります。
こうした態度は、作品にも反映されていると思います。例えば、写真という媒体が持つ限界を受け入れたり、あるいはその限界を乗り越えようとしたりする姿勢として表れています。
壁によって隔てられた二つの空間を想像してみてください。その壁には秘密の通路が設けられていて、二つの空間を自由に行き来できるようになっています。
何かを定義し、その定義に挑戦する。そして、また同じことを繰り返す。
これを「受け入れる」と呼んでよいのかどうか、自分でもよく分かりません。そして、それが自分をどこへ導いていくのかも分かりません。
ただ、こうした態度は、『Temporary Garden』以降の作品に、より強く反映されるようになったと思います。
『Temporary Garden』で私が語った「柔軟さ」について、もう少し具体的にお話しします。
私が魅了されたのは、観察していたさまざまなものが、絡まり合い、ねじれ、あるいは何かを貫通しながら、境界の内側と外側を自由に行き来している様子でした。
そして、それらを撮影する過程で、私自身も、撮りたい写真を撮るために、人々の家を囲む塀を乗り越えていることに気づきました。
私もまた、内側と外側を行き来していたのです。
ときには、その家の住人と鉢合わせすることもありました。ある意味では、そうした気まずい状況に対処し、何とか切り抜けることを楽しんでいたところもあります。
しかし、『Temporary Garden』を観る人たちには、写真の背後に隠されたこうした出来事を知る術がありません。
私は、それが写真というものなのだと思います。
表現したいと願うことと、実際に表現されたものとのあいだには、常に何らかの隔たりが存在しているように思うのです。
_住人との鉢合わせは、本当に気まずいですね(笑)。『Temporary Garden』の被写体である植物が境界を越えていく姿と、撮影するあなた自身が境界の内側と外側を行き来していたというお話には、とても興味を惹かれました。そこには、何か共通するものがあるようにも感じます。
また、境界を自由に行き来するという姿勢や、相反する二つの価値観の両方を受け入れようとする考え方にも、深く頷きました。
そして、写真の背後にある出来事についてのお話も興味深いです。あなたは、表現したいことと、実際に表現されたものとのあいだには、常に隔たりがあると話されました。そうした、写真には写らない出来事や、伝えきれないものが残されるという写真そのものの特性について、あなたはどのように感じていますか? そこにも写真の魅力を感じているのでしょうか?
写真という媒体が持つ限界は、明らかだと思います。写真のイメージは断片的で、音もなく、その背景にある文脈を捉えることも難しい。おそらく、だからこそ写真は、曖昧な媒体だと考えられることが多いのでしょう。
不思議なことに、私にとって写真は、とても直感的な媒体に感じられます。まるで、写真そのものが何かをとても明確に語りかけているかのようなのです。
しかし、それでも私は、なぜ自分が写真に惹かれるのか、実のところよく分かっていません。
もしかすると、分からないということ自体が、私を制作へと駆り立てているのかもしれません。
なぜなら、何かを愛し、それに夢中になっているとき、人はたいてい、なぜそれを愛しているのかなどと問いかけたりはしないものだからです。
_「写真そのものが何かを語りかけている」というあなたの言葉を聞いて、ルイジ・ギッリの『写真講義』を思い出しました。
また、「分からないということ自体が、制作へと駆り立てているのかもしれない」という言葉にも共感します。
分からないからこそ、分かりたい、理解したいと思う。また、分からないままでいるからこそ、相手(被写体)に対して注意深く目を向け、耳を傾けることができるようにも思います。
あなたの写真を観ていると、私には、写真を撮るという行為そのものが、そうした態度につながっているように感じられます。あなた自身は、どう思われますか?
もう少し正確に言うと、私は何かに深く没頭しているときや、集中しているときには、何の判断も下していません。注意深い観察ができるのは、そうした状態にあるときだけだと感じています。
私が言う「観察」とは、無理に写真を撮ろうとするのではなく、自然と何かに反応してしまうような観察のことです。私のこれまでのプロジェクトは、すべてそのようなところから始まっています。
例えば、『Temporary Garden』に収められた写真も、最初からひとつのシリーズになると考えて撮影したものではありませんでした。
時間が経つにつれて、似たような写真が集まっていることに気づき、そこから意識的に、同じような被写体を探すようになりました。
それがひとつのプロジェクトになり得ると気づいたとき、人はそこに意味を見出し始めます。そして、どこかの段階で、プロジェクトを完成させるために、両者のあいだで折り合いをつける必要が出てくるのです。
意味を探すことが悪いと言っているわけではありません。
しかし、その一方で、私は過去の経験や知識に基づいて、今この瞬間を解釈したり、物事を見たりしたいとは思っていません。
私が相反する二つの価値観を受け入れようとするのは、こうしたジレンマがあるからなのだと思います。
_なるほど。つまり、最初から明確な意図を持って写真を撮っていたのではなく、撮り続けるなかで集まった写真から、ひとつのシリーズが生まれていったのですね。とても興味深いです。
ここまでのお話で、あなたが「分からないこと」や「受け入れること」について繰り返し語られているのが印象的でした。以前の回答でも、「完全に理解することも、コントロールすることもできないものが存在するのだと認めること」と話されていましたね。
こうした言葉からは、目の前にあるものを、自分の考えや判断だけで捉えようとせず、まず受け止めようとする姿勢を感じます。
一方で、写真家は、そうして受け止めたものを、自らの表現として他者に差し出す立場でもあると思います。
そこでお聞きしたいのですが、写真を撮り、選び、ひとつの作品として表現するとき、あなた自身が意識していることはありますか?
また、何かを受け止めることと、自ら表現することのあいだに、どのような関係を感じていますか?
それは、私が写真を撮り始めた頃から現在に至るまで、時間とともに少しずつ変化してきたと思います。
写真を撮るときや、写真を選ぶときに、自分のなかに絶対的な基準がひとつあるわけではありません。
例えば、以前お話ししたように、『Temporary Garden』の写真を観る人たちは、私が実際に街で撮影していたときに、どのような経験をしたのかを知ることはできません。
そうした写真の限界を感じたことが、次のシリーズ『Smoking Area』の出発点となりました。
『Smoking Area』では、鑑賞者が写真を観ながら、その写真を撮影したときに、写真家がどのような経験をしたのだろうかと想像するように、意図的に作品を構想しました。
ある意味では、アーティスト自身は写真のフレームのなかに登場しない、ひとつのパフォーマンス作品として、この作品に取り組んだのです。
しかし、私はこのような手法を繰り返し続けたいとは思っていません。
ひとつの場所にとどまるのではなく、常に前へと進み続けたい。そして、そうした思いが、自分の作品にも反映されていくことを願っています。


_たしかに『Smoking Area』は、パフォーマンス作品ですね。私もこの作品集を観ていて、撮影しているあなた、つまり写真家としてのあなたの視線に、自分の視線を重ねながら体験しているような感覚がありました。あなたがどのような経験をしたのか。相手からどのような視線を向けられ、どのような言葉をかけられたのか。そうしたことを想像しました。
常に前へと進み続けたいとおっしゃっていましたが、『Temporary Garden』、『Smoking Area』、そして『Big Dream』へと制作を進めるなかで、ご自身ではどのような変化があったと感じていますか?
また、私は『Big Dream』を観て、これまでの作品よりも、あなた自身の個人的な感覚や内面に近づいているような印象を受けました。あなた自身は、どう感じていますか?
『Smoking Area』以降、自分のなかで明確な変化があったように感じています。
先ほど、断片的なイメージが持つ限界についてお話ししましたね。それまで私が行ってきたのは、そうした断片的なイメージを集め、編集の過程を通して、それらに文脈を与えることだったのだと思います。
しかし、『Big Dream』には、そのような文脈を見出すことは難しいでしょう。一見すると、本に収められた写真同士には、何のつながりもないように見えます。
ある意味では、私は写真という媒体が持つ性質や限界を、ありのままに受け入れてみたかったのだと思います。
それは、ひとりの人間として、自分自身の不完全さを認め、受け入れることにも似ています。
『Big Dream』には、私自身の内面世界が反映されているのだと思います。
_たしかに『Big Dream』のページをめくっていると、それぞれの写真が独立した作品のように感じられます。
ただ、その一方で、これらの写真はひとつの作品集として綴じられ、ひとつのタイトルを冠しています。これまでのお話にもあったとおり、作品集としてまとめる過程では、さまざまなデザイン上の判断もあったと思います。
こうして、ひとつの形にデザインすることには、何か意図があったのでしょうか?
あるいは、これまであなたが語ってきた、ご自身の内面世界や、そこにあるであろう矛盾、そして、それらを受け入れるという態度も含めて、ひとつの形になったということでしょうか?
『Big Dream』に収められた写真は、2016年から2025年にかけて撮影したものです。撮影した当時は、それらが一冊の本になるとは考えていませんでした。なかには、過去に別のプロジェクトで使用した写真もあります。
先ほどもお話ししたように、『Smoking Area』以降、私のなかには明確な変化がありました。
もう少し具体的に言うと、それまで自分が行ってきた、似たような種類の写真を集めて、ひとつのシリーズをつくるという方法に疑問を持ち始めたのです。
つまり、一定の枚数の写真を組み合わせ、特定のテーマや考えを展開し、作品として発表する。そして、そのプロジェクトが完成すると、次のシリーズへと移っていく。そうしたことを繰り返す制作の形式そのものに、疑問を抱くようになったのだと思います。
そこで私は、過去に特定の意図を持って撮影した写真も含めて、写真同士のあいだに新しい関係性を生み出す、もっと柔軟な方法を見つけたいと考えるようになりました。
『Big Dream』は、そうした試みをひとつにまとめた本として捉えていただけると思います。
_とても興味深いです。あなたがお話しされた「写真同士のあいだに新しい関係性を生み出す、もっと柔軟な方法」というのは、実際に『Big Dream』をデザインする際には、どのようなことを意識されたのでしょうか?

とてもシンプルなことです。
表紙から背表紙、そして裏表紙へとつながっているイメージは、実は、くしゃくしゃになった鏡をクローズアップして撮影した写真なのです。
通常、鏡は自分自身の姿を映し出します。しかし、くしゃくしゃになった鏡は、現実をいくつもの断片に分解してしまいます。
そして、本を開くと、そこには世界の断片的なイメージが現れる。
ただ、それだけです!

_素晴らしい発想とデザインですね! 今、表紙のデザインに込められた意図をお聞きして、この作品集がさらに興味深いものになりました。
ありがとうございます。ここまで、あなたには作品のこと、考え方、インスピレーション、写真、デザインなど、本当に多くのことをお聞きしました。
最後に、ひとつだけ質問させてください。
現在、関心を持っていることや、これから取り組んでみたいことがありましたら、ぜひお聞かせください。
今のところ、具体的に何かに取り組む予定はありません。ただ、自分が自然と反応してしまうような何かが現れるのを待っているところです。
とはいえ、明日はスタジオの掃除をする予定ですけどね!
本当にありがとうございました!

Sunik Kim
キム・ソニクは、ソウルを拠点に活動する写真家。記録と表現、コントロールと直感のあいだでバランスを取りながら、世界を観察している。
彼の作品は、イメージが何を表しているかということよりも、日々の生活や世界とどのように関わるかという独自の態度から生まれ、それが視覚的な実践として展開されていく。
主に、社会構造のなかで生じるさまざまな現象と、個人的な経験が交差する地点を、写真を通して可視化することを試みている。そして、それらを出版物や展覧会という形で再構成しながら、制作活動を続けている。



